From灘 「物事を「知る」ということ」

物事を「知る」ということ

現在、灘中の3年生は『いちご同盟』(作・三田誠広)という青春物語を読み進めています。

先日は、風景描写についての授業をしました。文中に、「夕方の灰色の光線の下で、石や、壁や、鉄の配管が、無機物の鈍い光沢を放っていた」というシーンがあります。これは、重い病気にかかった友人を心配する主人公の男の子が、目の前の風景を見て語ったものなのですが、私たちはこれをどのように読み取ればよいでしょうか。「灰色」「無機物」「鈍い」といった暗い表現からは、どこか殺風景で物悲しい印象を受けます。生徒は「病気の友達を心配する気持ちが表れているのでは」と指摘してくれます。

確かに、風景に感情を重ねる技術は、古くから日本人の得意技でした。短歌や俳句はその最たるものでしょう。しかし、風景は「目」と「感情」だけで見ているかというと、それだけではありません。

「知の理論」という国際的な教育の考え方があります。これによると、人間が物事を知る方法には、知覚・感情・言語・理性・想像・信仰・直感・記憶の八つがあります。引用文の場合、光は鉄で反射するという知識(理性・記憶)や、目の前のモノが「石」や「壁」という名前(言語)であると知らなければ、風景はながめられないというわけです。

私たちはさまざまな方法で、風景をながめています。他者との見方の違いを実感することも、物語を読む楽しみの一つではないでしょうか。

【朝日小学生新聞2016年12月4日 掲載】